MAZDA

MAZDA 100TH ANNIVERSARY

マツダ創業者の想い

マツダの実質的な創業者である松田重次郎。

恵まれた境遇とは言えない中で常に彼を突き動かしたのは、「モノづくりへの情熱」でした。

現在まで脈々と受け継がれるマツダのDNAともいうべき、その人生と思想を紐解きます。

「機械工業こそ自分の本業」

モノづくりの情熱が芽生えた青年時代。

松田重次郎

1875年、12人兄弟の末っ子として広島で生まれた松田重次郎。正規の学校に通えず、満13歳で大阪に出て、住み込みで鍛冶屋で働くことになります。その中で芽生えたのが「機械工業こそ自分の本業」という想い。「より高度な技術を習得したい」と、造船所や砲兵工廠などさまざまな工場を渡り歩き、自分の仕事の合間にも工場をくまなく見学して、機械やモノづくりについて自分なりの研究を重ねました。

わずか10坪ほどの製作所から 「専売特許松田式ポンプ」を世に出す。

松田製作所時代の
排水用大型渦巻ポンプ(1913年)

31歳の時、大阪で創業した「松田製作所」は、わずか10坪ほどの牛小屋を借りてのスタート。苦労して開発した商品がすでに販売されていたことをあとから知るなど挫折もありましたが、挫折をバネに、既存の商品を徹底的に研究、改良した「専売特許松田式ポンプ」を世に出します。「よい機械を使わないと世間に喜んでもらえるモノは造れない」との考えから工場にも新しく高性能な海外製の製造機械を積極的に導入するなど、モノづくりへの情熱は並々ならぬものがありました。

工場全焼の不幸を経て辿り着いた 「一人一業」の決意。

圧搾コルク板

1918年、40代半ばで広島に戻り「広島松田製作所」を設立した重次郎は、すでに財界人も一目置く実業家となっていました。1920年には、不振からの再出発を目指していた「東洋コルク工業」に周囲に推される形で参画。本業の機械分野ではありませんでしたが、企業としての成功を目指して新製品のアイデアを出すなど、新たな挑戦に取り組みます。その一つが圧搾コルク板の製造。病気で退任した初代社長に代わって社長に就任した重次郎は、苦労の末、断熱材や緩衝材としても使える新製品を世に出すことに成功し、見事に経営を軌道に乗せたのです。

しかし1925年、火事で工場が全焼するという不幸に見舞われます。莫大な負債を負い、死者まで出したことで大きなショックを受けた重次郎。しかしこの大事故への反省から初心に戻り、「一人一業」の想いを胸に本来の得意分野である機械工業での再起を目指すのでした。社名を東洋工業と改めたのもこのころです。

磨きつづけた技術を、社会のために。 三輪トラック事業への進出。

量産型 三輪トラック マツダ号「DA型」

おりしも、1923年の関東大震災をきっかけに、輸送手段としての自動車に注目が集まっていた時代。そんな中で重次郎が着目したのは三輪トラックの製造でした。高価な四輪自動車ではなく、より多くの人が気軽に使える三輪トラックを選んだのは、「国民生活の向上と我が国の発展に貢献したい」との考えからでした。他の国内メーカーがエンジンなどの主要部品を海外製品に頼る中、部品についても可能な限り自社開発にこだわり、技術者たちとともに研究に没頭。その後の自動車メーカーとしての礎を築く、量産型の三輪トラックの発売にこぎつけました。名前は重次郎の名字から取った『マツダ号』。『MAZDA』という表記も、このときから使われています。

コーポレートマークに込めた想い。

東洋工業のコーポレートマーク

東洋工業のコーポレートマークは、地球を表す丸に工業の「工」の字を組み合わせたデザインですが、これは「自分たちの本業である機械工業で世界に貢献する」という重次郎の想いを込めたもの。「自分たちの技術で社会に貢献したい」というその理念と、飽くなき技術への探究心は、現在のマツダにも脈々と受け継がれています。

境遇に恵まれず、若くして郷里を離れ、さまざまな過酷な運命に翻弄された重次郎。そんな彼を、それでもまっすぐ突き進ませたものは、「『信』の一字」であったとのちに重次郎は振り返っています。自分の力を信じ、人を信じ、天を信じることで、失敗を恐れない心が生まれ、周囲とともに栄えることができ、成功することができる――そんな想いもまた、現在のマツダの挑戦につながっているといえるでしょう。