サバンナ RX-7 (初代)
ロータリーエンジンの新次元
1978年3月、東洋工業(現マツダ)はロータリーエンジン(以下RE)搭載の全く新しいクルマを発売しました。サバンナRX-7です。当時の広報資料によると、「クルマを運転する楽しみを追求」するロータリースペシャルティーカーとあります。1967年のコスモスポーツ以来、ファミリア、ルーチェと拡充する車種の多くにREを搭載してきましたが、それらのクルマにはレシプロエンジン搭載車も存在し、REは静かで高性能という長所を活かした上級グレードに設定されていました。しかし、RX-7は違います。エンジンはREのみの量産スポーツカー、誕生からわずか10年足らずで訪れた試練を経て、世の中にREの在り方を問い直したクルマでした。
もう一度、REで世界へ
その誕生には「REの復権」という大きな使命が課せられていました。1970年代前半、先進国では大気汚染が問題となり、元々NOxの排出量が少ないREは低公害エンジンの本命と目され、最大の輸出先となった米国では販売台数が大きく伸びていました。東洋工業がREをファミリアやカペラにも搭載して攻勢を強めていた矢先、中東の政情不安をきっかけに世界中を第1次石油ショックが襲いました。原油価格は急騰し、ガソリンも高騰しました。RE車は小型車としてはパワフルでしたが、燃費面では非力な競合車に対して不利でした。さらに米国で公表された燃費ランキングの影響もあって「REはガソリン喰い」というイメージが世界に拡散して評価が一変、世界中で在庫の山を築きました。東洋工業はそのリベンジをかけて燃費40%改善を公約、そしてREの真価を発揮できるクルマとしてサバンナRX-7を企画したのです。
Designed by Rotary
カタログの冒頭に登場するこの言葉が、サバンナRX-7の成り立ちを端的に言い表しています。コンパクトなREだからこそ可能な、エンジンを前車軸よりも後方に搭載する「フロントミッドシップ方式」、この搭載位置がすべての始まりです。これによって低いボンネットとクサビ形の流麗なフォルムを実現しています。
1978年のカタログより
スポーツカーの資質はトレッドとホイールベースの関係が大きく支配します。機敏な運動性能のためにクルマは小さく軽くしたい中で、各種法規や乗員の快適性や利便性、安全性を考慮してホイールベースが決まります。小型で静か、低振動のREは乗員スペースに近づけやすく、ホイールベース内にエンジンとキャビンを収める点で有利です。実際に車体中心近くにエンジン、トランスミッションといった重量物を集めることで、2名乗車時の前後重量配分は50.7:49.3という理想的な数値を実現し、レイアウト自体で操縦安定性と旋回性能を高めています。REでしか成立し得ないパッケージングと運動性能。正に「Designed
by Rotary」です。
1978年のカタログより
デザインとメカニズム
まず外観上の特徴は、当時の国産乗用車で唯一のリトラクタブルヘッドライトです。折からのスーパーカーブームもあって子供たちにも大人気、3代にわたるRX-7のアイコンです。次はリアのガラスハッチ。戦闘機のキャノピーを意識したガラスエリアのデザイン意図を実現しながら、ピラーを内側に隠して必要な強度や適正な生産コスト、明るい室内と広い視界、そしてCd値0.36という優れた空力性能も手にいれました。リアの曲面ガラスと太いBピラーはコスモスポーツを意識しています。
SE-GT(1979年)
そして心臓部である12A型REは燃費改善と排ガス浄化の最新メニューを折り込み、世界で最も厳しい日本の昭和53年度排ガス規制に適合させた上で、最高出力は130馬力に向上。新開発のマフラーはデュアルのエキゾーストパイプを介して低周波で存在感のある、新たなロータリーサウンドを響かせました。
このパワーを路面に伝えるリアサスペンションには、初代サバンナのレース活動で実績のある4リンク+ワットリンク式を採用しました。これは、後車軸の横方向の位置決めにワットリンクと呼ぶ5番目のリンクを追加して、コーナリング時の安定性を高めるものです。その構造と取り付け位置は、リアのオーバーハングを短く抑えてデザインの良さを維持するように工夫されています。ニュートラルで安定性の高いハンドリングはRX-7の評価を決定づけました。
このパワーを路面に伝えるリアサスペンションには、初代サバンナのレース活動で実績のある4リンク+ワットリンク式を採用しました。これは、後車軸の横方向の位置決めにワットリンクと呼ぶ5番目のリンクを追加して、コーナリング時の安定性を高めるものです。その構造と取り付け位置は、リアのオーバーハングを短く抑えてデザインの良さを維持するように工夫されています。ニュートラルで安定性の高いハンドリングはRX-7の評価を決定づけました。
12A型ロータリーエンジン
インテリアに目を向けると、大きなガラス面積が従来のスポーツカーにはない明るい印象です。廉価グレードを除き、シート座面と背もたれはチェック柄、インパネも上下で色を変えています。リミテッド専用色のマッハグリーンメタリックは新感覚のボディ色、組み合わされる内装も明るいベージュ基調でカジュアルなムードを感じさせます。
リアシートは背もたれを前方に倒すとトランクルームと一体となり、2人分の荷物を積んで小旅行にも行けます。これはメイン市場となる米国における、「小型スポーツカーの用途の大半は日常の足であり、ユーザーには女性も多い」という調査結果を反映しています。一方でインパネは、コスモスポーツ以来の伝統であるT型ダッシュボードを採用、機能的にまとめられた小ぶりの計器盤を配して、操作系はセンターコンソールに集約。リラックスしながらも運転に集中できる環境でした。
リアシートは背もたれを前方に倒すとトランクルームと一体となり、2人分の荷物を積んで小旅行にも行けます。これはメイン市場となる米国における、「小型スポーツカーの用途の大半は日常の足であり、ユーザーには女性も多い」という調査結果を反映しています。一方でインパネは、コスモスポーツ以来の伝統であるT型ダッシュボードを採用、機能的にまとめられた小ぶりの計器盤を配して、操作系はセンターコンソールに集約。リラックスしながらも運転に集中できる環境でした。
リミテッド(1978年)
リミテッド(1978年)
RX-7とモータースポーツ
発売翌年の1979年2月、IMSAシリーズ開幕戦のデイトナ24時間レースでは、GTUクラスに2台が参戦し、クラス1、2位、総合でも5、6位に食い込む華々しいデビューを飾りました。1980年から1987年までは8年連続でGTUクラスのメーカーズタイトルを獲得し、1990年には2代目RX-7がIMSA通算100勝という金字塔を打ち立てました。また、ル・マン24時間レースにも1979年から参戦し1982年には総合14位で初完走を果たし、1981年のスパ・フランコルシャン24時間レースでは日本車初の総合優勝など、各国のレースで活躍しました。ワークス活動だけではなく、プライベーターへのパーツ供給にも力を注いだことで、モータースポーツの底辺拡大に貢献し、安くて勝てるマシンとしても人気を集めました。初代RX-7はラリーでも活躍し、WRCや北米のプロラリーシリーズにも参戦。その中には4WDに改造されたマシンや、グループBという大改造クラスに向けて開発されたマシンもありました。レースという極限の世界で鍛えられた技術は、モデル途中での進化や2代目RX-7に活かされていきました。
北米IMSAシリーズ
WRCアクロポリスラリー(1985年)
スポーツカーづくりの覚悟
価格設定も企画時からの大事なポイントで、多くの人の手が届く価格は必須要件でした。実際に国内で最上級のリミテッドの価格は173万円。排ガス規制で魅力的な車が消えていく中、スポーティーなルックスに高い性能が伴ったRX-7の登場は、クルマ好きに熱狂的に迎え入れられました。1年目の生産台数はスポーツカーとしては異例の72,962台を記録、3年目以降も年間5万台以上をキープし続け、1985年の2代目登場までの累計生産台数は471,009台に達しました。その間、1980年には外観変更を伴うマイナーチェンジを実施、他にも装備やエンジンの改良を4回にわたって実施、1983年には12A型REターボも追加しています。一方で米国ではターボの代わりに1984年に最上級グレードとしてGSL-SEを設定、13B-SI型RE(スーパーインジェクション)を搭載しました。ゆとりある中低速域が魅力でインパネデザインも一新。「大人のスポーツカー」としての魅力を加え、この流れが2代目へとつながります。スポーツカーは多くの台数を見込めないカテゴリーであるため、モデル周期が長くなりがちです。最初の基本設計段階で高い目標を掲げ、妥協を排して資質を高めておくこと、その後も手を緩めず熟成を重ねて育てる、そんなスポーツカーづくりの方針とプロセスが重要です。さらには、一貫した哲学に加え、情熱を持ち続けることも不可欠です。マツダはそんなスポーツカーの造り方と育て方をRX-7を通じて体得し、現在では多くのマツダ車がその指針に沿って進化を続けていると言えます。