R360クーペ
乗用車市場進出の第一歩
R360クーペは東洋工業(現マツダ)が四輪乗用車市場へ進出した、記念すべき最初のクルマです。会社は1931年の三輪トラックで自動車産業に参入した当時から、いずれは四輪乗用車を加え、フルラインアップの総合自動車メーカーになる大望を抱いていました。しかし世の中に広く役立つものをとの考えのもと、当時の自動車はまだ荷役主体だったことから、未舗装で狭い道路でも小回りがきいて頑丈な小型三輪トラックを選んだのです。
日本が第二次世界大戦後の復興期から高度経済成長時代に向かう中、人びとにマイカーの夢が拡がり始めました。東洋工業は国民の所得階層分布をピラミッドになぞらえて、各階層の需要に応じた排気量やサイズを想定しました。既に市場には大小さまざまな国産乗用車がありましたが、依然として庶民には高嶺の花でした。そこでまずピラミッド底辺の大衆層に向けて、低価格・低維持費で実用性を担保したクルマから市場に参入することを計画したのです。これが「ピラミッドビジョン」と呼ばれる独自の商品戦略でした。
ピラミッドビジョンを示すモデルと松田恒次社長(左)
新技術の採用と量産効果で価格を引き下げ、免許取得の容易性、車検、税金、燃費などの維持費も考慮して、クルマは必然的に軽自動車としました。同時期に東洋工業はR360クーペの生産に先立ち、大量生産時代にふさわしい最新鋭の塗装・組立工場も建設。会社は大きな飛躍に向けて挑戦の一歩を踏み出したのです。
パッケージングと構想
当時の軽自動車規格は全長3m未満、エンジン排気量は360cc未満で、大人4人が乗るにはサイズ的にもパワー的にも限界がありました。一方で市場における実際の使用状況を分析すると、大半はビジネス用途で1~2名の乗員とカバン程度、家庭でも大人二人と子供といった状況であることが判りました。その結果、前席をメインに後席は補助的な位置づけと割り切った2+2として、エンジンと駆動系を座席後部にまとめたリアエンジン・リアドライブ方式を採用しました。駆動系ではマニュアルミッションの他に、画期的な軽乗用車初のトルクコンバータ式の本格的なオートマチックを用意しました。それは、より多くの人にクルマのある生活を届けたいという東洋工業の願いの現れでした。
1960年のカタログより
先進的なクーペデザイン
外観で目を引くのはスタイリッシュで愛らしい、そのスタイルです。デザインしたのは三輪トラック時代からデザインを委託されていた、日本の工業デザインのパイオニアである小杉二郎氏。氏のデザインは見た目だけではなく機能に裏打ちされていて、事実R360クーペのデザインは軽規格のサイズの中に、2+2のキャビンとリアの駆動系ユニットを収めるパッケージングから出発しています。エンジン・駆動系をリアに置くことで、ボンネットは低くスラントした造形が可能になりました。また、2ドアクーペボディはセンターピラーを排除し、視界が広く明るい室内も実現しています。当時の国産車で最も低い車高は、空気抵抗を小さくして走行安定性や燃費に対する効果も見込んでいました。
小改良後のモデル(1962年)
さらに、その造形は複雑なプレス成型過程が不要で、低コストかつ大量生産に有利な要件を押さえていました。例えばボディ側面は上下のみに単純な曲率がついた平板で、工程の手間を削減しています。中央の段差がついたプレスラインはパネルの強度を高めると同時に、短い全長を低く伸びやかに見せる効果も考えた上でのことでした。単に可愛らしさを狙ったものではなく、生産性まで考慮した合理的で先進的な考えに基づいているのです。小杉氏は企画初期から設計や生産の人たちと議論を重ねながら、このデザインを完成させました。
先進のメカニズム
東洋工業はR360クーペを開発しながら次の一手、そして小型車市場への進出を見据えていました。軽自動車では前例のない高度なメカニズムや高価な素材を採用したのは、より良い商品を目指したことはもちろんですが、小型車への進出を描いてのことでした。そして、それらを量産する生産技術や設備の先行導入にも積極的でした。
エンジンは国産軽乗用車初の4サイクルエンジン。あえて出力確保が容易で、軽くて低コストの2サイクルエンジンを選ばなかったのは、欠点である燃費や音・振動、そして特有の青白くて臭い排気ガスを排除するためでした。4サイクルの複雑な機構による重量増を補うために、シリンダーヘッドには軽くて冷却性に優れるアルミ合金、一部の部品には高価なマグネシウム合金も採用。クルマ全体での軽量化対策では、ボディはフレームのない現代でいうモノコック構造、ボンネットやリアのエンジンルームカバーは軽合金製、特徴的なリアウインドウは透明アクリル樹脂製としました。その結果、車両重量は国産乗用車で最軽量の380kgでした。
オートマチック車の運転席(1961年)
サスペンションはトーションラバースプリングと油圧ダンパーを組み合わせた四輪独立懸架で、快適な乗り心地に加えて乗員数や荷物の量に応じて車高調整が可能なハイトコントロール機構まで備えていました。東洋工業は三輪時代から自社製造にこだわり、海外メーカーとの技術提携にも積極的でした。カムシャフトなどの鋳造部品に用いられる精密鋳造技術や、アルミと鋳鉄を結合した軽量で放熱性に優れたブレーキは、海外メーカーとの技術提携によって自社製造を実現したものでした。
驚きの低価格
このような先進的な機構や技術を織り込みながらマニュアル車で30万円、オートマチック車でも32万円という他の軽自動車よりも10万円前後も安い価格は大反響を呼びました。1960年5月17日、R360クーペは前月に完成したばかりの新工場から誕生しました。日本初のコンピュータによる生産管理方式、集中コントロール室からの工場全体の制御、将来の小型車の生産も見据えたオートメーションと呼べる最先端の工場は、2万台/月の生産能力と7車種14機種の混流生産、安定した品質の実現によって生産コストを抑えることで30万円という驚きの低価格を後押ししました。
新塗装組立工場(1960年)
市場の反響
R360クーペは上々の前評判で発売前に4,500台以上を受注、発売後も順調な販売を続けて、その年の12月には4,606台の月間販売台数を記録し、年間生産台数は23,417台に、東洋工業の軽乗用車市場におけるシェアは一時的に64.8%にまで達しました。
翌1961年2月にサイドウインドウを巻き上げ式に変更するなどの小改良を加えると同時に、おしゃれなツートンカラーのボディや内装をまとった「デラックス」も登場。ローンによる販売方式も導入するなど、R360クーペはマイカー保有の夢を大きく現実に近づける役割を果たし、日本のモータリーゼーションの進展にも寄与しました。
デラックス~1961年のカタログより