年表で辿る百年史
第1章 会社創立 ~ コルクから機械事業への転換
1920年、経営難に陥った広島のコルク製造会社を救済するため、地元財界の有力者が中心となって「東洋コルク工業株式会社」を創立しました。翌年、2代目社長に就任した松田重次郎は圧搾コルク板という新製品に着目し、生産を軌道に乗せるも、その矢先の1925年、工場設備の70%を焼失する大火災に見舞われます。絶望の淵から懸命の再建を図る中で、重次郎は自らのキャリアの原点に立ち返り、機械工業への進出を決意します。1927年に「東洋工業株式会社」へ社名を変更。1931年には郷里に近い府中村(現:府中町)に新工場を建設し、ついに自動車業界への進出を果たします。完全なる自社開発の三輪トラック"マツダ号"は、画期的な販売促進策も奏功し、瞬く間に業界の有力ブランドに成長しました。工作機械やさく岩機の生産にも乗り出し、高い技術力が広く認められた東洋工業ですが、戦時下では軍需への対応を強く迫られ、陸・海軍の命令で兵器や機械を生産しながら終戦を迎えます。
1920(大正9年)
1月
東洋コルク工業株式会社として創立
2月
初代社長に海塚新八が就任
6月
本社と工場を広島市中島新町から吉島町へ移転
1921(大正10年)
1922(大正11年)
7月
圧搾コルク板の生産を開始
12月
大阪出張所を設置
1924(大正13年)
2月
東京出張所を設置
1925(大正14年)
12月
工場火災により工場設備の70%余りを焼失、操業停止に
1927(昭和2年)
9月
東洋工業株式会社に社名を変更
1928(昭和3年)
7月
シンボルマークを商標登録
1929(昭和4年)
4月
工作機械の生産を開始
11月
単車用2サイクル250ccエンジンの試作完了
1930(昭和5年)
10月
単車が広島市の招魂祭のオートレースで優勝
秋
三輪トラックの試作車が完成
1931(昭和6年)
5月
日本窒素肥料社長・野口遵氏が取締役に就任
本社を安芸郡府中村字新地に移転登記
7月
三菱商事と三輪トラック等に関する一手販売契約を締結
10月
三輪トラック「マツダ号」(DA型)の生産を開始
1932(昭和7年)
大連、奉天、青島へ三輪トラックを初輸出
1934(昭和9年)
1月
「DC型」三輪トラックを発売
工作機械と空気圧縮機の生産を開始
3月
"Mazda"を商標登録
1935(昭和10年)
10月
さく岩機を長津江水電(朝鮮)に初出荷
ゲージブロックの製造販売を開始
11月
名古屋出張所を設置
12月
「KC36型」三輪トラックを発売
1936(昭和11年)
1月
日窒火薬販売とさく岩機の一手販売契約を締結
4月
三輪トラックによる鹿児島-東京間宣伝キャラバンを実施
8月
国内での三菱商事との販売契約を解除
9月
三輪トラック販売に月賦手形制を導入
1937(昭和12年)
4月
朝日新聞社の神風号亜欧連絡飛行の歓送を兼ねた宣伝飛行を実施
12月
三八式歩兵銃および九二式騎兵銃の部品生産開始
1938(昭和13年)
1月
軍需工業動員法により陸海軍共同管理工場に指定される
5月
「GA型」三輪トラック(グリーンパネル)を発売
1939(昭和14年)
2月
軍用九七式側車付二輪車の生産を開始
1940(昭和15年)
5月
小型四輪乗用車の試作車が完成
1941(昭和16年)
2月
商工省より戦時標準型三輪トラックの試作命令を受ける
4月
小銃工場が竣工
12月
アセチレンガス発生装置付き三輪トラックが商工省公式性能試験で最優位合格
1943(昭和18年)
1月
生産機器(さく岩機)の製造事業許可会社となる
工作機械の製造事業許可会社となる
10月
工具の製造事業許可会社となる
1944(昭和19年)
1月
兵器および工作機械部門、陸・海・軍需各大臣より軍需会社に指定される
4月
さく岩機、航空機発動機部品および自動車部門、軍需会社に追加指定される
7月
内山コルク工業所と共同出資で東洋コルク株式会社を設立
1945(昭和20年)
8月
原子爆弾により広島市内で建物疎開作業中の従業員約200名が被爆
軍需会社指定を取り消し
建物の一部を広島県に貸与し県庁の全機構が当社へ
11月
三輪トラック、さく岩機、工具などの民需転換が認可される
12月
三輪トラックの生産を再開