1960年4月23日。誇らしげな笑顔で社長の松田恒次はそこに立っていた。彼のほんの数メートル先には、息子の晴れ姿を見守るように先代社長の松田重次郎の胸像が置かれている。
この晴れの場は、東洋工業の本館前で盛大に挙行されたマツダR360クーペの発表会である。大勢の関係者に見守られながら披露されたこの軽自動車は、東洋工業がもてる技術を惜しみなく投入した意欲作だった。超軽量で高性能、そのうえ画期的な低価格を実現し、マイカーの夢を現実のものとした革新的な一台だ。同時に、東洋工業自身にとってもR360クーペは記念すべき存在であった。長年夢見てきた乗用車市場への進出を果たす第1号車となったからである。
初披露の舞台として恒次が選んだ場所は、高級ホテルの豪華なロビーでも多くの人々で賑わう観光名所でもなく、先代社長の胸像前だった。恒次にとってこのセレモニーは、夢を果たせなかった父への報告でもあった。
夢のはじまりは、東洋工業が自動車製造に乗り出した、戦前の時代にまで遡る。高い技術力を背景に、発売した三輪トラックが順調にシェアを拡大し、東洋工業は業界トップメーカーの一角を占めるようになっていた。
そんな最中、社長の重次郎はひとり、はるか先の大きな夢を思い描いていた。乗用車市場への進出だった。やっと三輪トラックメーカーの地歩を築き始めた時に、である。「いずれ乗用車の時代がくる」と確信していた重次郎は、大衆向けの小型乗用車の開発に着手。四輪用の生産設備の準備も抜かりなく進めていったが、戦況の悪化により工場が軍の管理下に置かれ、研究開発を断念せざるを得なかった。終戦後、再びチャンスが訪れたが、三輪業界の盟主を賭けた熾烈な開発競争の中で、またしても乗用車の研究は後回しとなり、重次郎は自身の大きな夢を叶えられぬまま、1952年に世を去ることとなる。父のひたむきな遠望を間近で感じ続けていた恒次は、父の夢を達成することが自らの使命と心に誓い、乗用車進出の機会をずっとうかがっていたのだ。
気づけば、最初の三輪トラック発売から約30年の月日が流れていた。R360クーペは、「大衆向けの乗用車をつくる」という父の思いをまさにカタチにしたクルマであった。同時にこの一台は、乗用車を頂点とした総合自動車メーカーへの飛躍を期す、新たなはじまりの一歩でもあった。父の、そして東洋工業の夢を乗せた一台。それを披露する舞台は、今なお父の遺志が残るこの場所しか考えられなかったのである。
先代社長の胸像前で行われたセレモニー
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