非正規プロジェクト
1986年2月、あるスポーツカー開発プロジェクトのリーダーに志願して就任した男がいた。クルマづくりに熱い思いを持つ彼の手で、ロードスター誕生の奇跡の物語は幕を開けた。
このプロジェクトは元々、成功する確率が五分五分であれば企画検討を進めていく「オフライン55」という、試験的意味合いの強い取り組みとしてスタートした。正式にGOサインが出てからも、当時のマツダは複数の基幹車種の開発が同時進行しており、極めて趣味性の高い少量生産モデルに十分な開発リソースを割く余裕はなかった。この結果、チームに与えられた事務所はデザインセンター5階の倉庫の片隅。図面を描くのも苦労するほど薄暗く、まともな空調も効かない、コンクリート剥き出しの作業場であった。専任の開発メンバーはごく少数で、ほとんどが他の大きなプロジェクトと掛け持ち。しかも、メインの業務を終えた後にあたふたと駆け付けてくる有様だった。傍目にはどうにも前途多難な状況である。
目指すクルマは、2人乗りオープンで後輪駆動の〝軽量スポーツカー〟だ。過去のマツダ車に前例がないため、一から構想を組み立てなければならなかった。開発コンセプトは「人馬一体」と定め、意のままに操る感覚を重視した。「スポーツカーは速ければいいというものじゃない。運転する歓びを肌で感じながら楽しく移動できなくてはいけない」とのリーダーの言葉に、スタッフたちは大いに触発された。彼らは壁に貼り出した図面を前にして、エンジンの細かな搭載位置や構成部品の重量バランスのとり方、最適なサスペンション形式の選定など、時には自身の担当領域を越えて知恵を出し合い、来る日も来る日も、深い議論を重ねていった。
そんなスタッフたちの熱意に、リーダーは常々「こんな酷い環境で申し訳ない」と心苦しく感じていた。でも実際のところは全員が根っからのクルマ好き。「自分たちが本当に乗りたいクルマをつくるのだから、仕事が楽しくて仕方がない。とことん作業に集中するにはむしろこの場所は好都合だ」と感じていたくらいだった。彼らは、この川沿いの建物内にある仕事場を、誇りを持って「リバーサイドホテル」と呼んだ。実際にはホテルとは似ても似つかない飾り気のない空間だったが、ここで彼らは時間が経つのも忘れ、喜々として開発作業にのめり込んでいった。それは、エンジニア冥利に尽きる至福の時間であり、彼らにとって最高にプレミアムな場所だったといえるかもしれない。
類稀なる好き者たちがこだわりを惜しみなく注ぎ込んだ〝倉庫生まれ〟のロードスター。その一意専心の取り組みが世界の共感を呼び、やがてブランドアイコンにまで昇華するという奇跡のような展開を見せることとなる。