パワーウインドウ・スイッチ
車両開発本部に保管されている30年以上も前の新聞広告。そこにはマツダにとって重要なひとつの開発姿勢が示されている。
広告は、1985年に発売した六代目のファミリアが、〝引き上げ式〟のパワーウインドウ・スイッチを初採用したことを伝えるものだ。現在ではすっかりお馴染みのスイッチのことである。読み進めると、開発のきっかけは「子どもがパワーウインドウに手を挟んだ事故」とある。当時は押し下げ式のスイッチが主流であり、スイッチの前側を押すか、後側を押すかでガラスの上下する方向が切り替わった。このため、子どもが窓から乗り出そうとドアの肘掛けに足をのせた際に、そこに設置してあるスイッチを意図せず押し下げ、ガラスに挟まれてしまうリスクがあったのである。自社のクルマの事例ではなかったが、マツダも早急に手を打つことを決めた。
入社4年目だった設計担当者は、事故が起きる場面を何度も想像した。子どもの足が届く位置にスイッチがあるのが悪いのか。はたまた、肘掛けとスイッチの位置関係が悪いのか。部内で議論しながら、様々なスイッチ形状やレイアウトを繰り返し検討した。そもそもスイッチとはどうあるべきか……考察が深まったある時、ついに逆転の発想に辿り着く。
「押すだけがスイッチなのか。引くスイッチだったら、事故は防げるのでは?」
〝引き上げ式スイッチ〟というこれまでにない方式が生まれた瞬間であった。新たに試作したスイッチは、凹みに指を引っ掛けて引き上げれば窓ガラスは上がり、逆に押し下げればガラスは下がる。この新方式は、安全性の向上はもちろん、スイッチとガラスの上下方向が一致し、感覚に合った操作ができるという新たな価値まで生み出していた。
ただ、正式採用までには入念な検証を要した。斬新なアイデアだけに、操作のわかりにくさを懸念する声は多く、表示の方法や適切な配置を徹底的に考え抜き、乗員が戸惑わないように工夫した。また、世界中のユーザーに配慮して、太い指でも確実に操作できるよう、指を掛けやすい窪み形状、滑りにくい表面処理など、スイッチ本体への工夫も隅々にまで及んだ。なんと、当時北米で流行していた〝つけ爪〟にまで配慮し、男性社員が現物を実装して検証したという苦労話まで残されている。
一方、こうした開発の先に待ち構えていたのはコストの問題である。工夫に工夫を重ねた新方式を採用すれば、当然部品コストは上昇する。ましてや大量生産するファミリーカーである。その累積は少額であるはずはない。しかし、マツダは採用を決断する。「ファミリーカーだからこそ家族全員の安全が最優先」。それはコストとは別の次元の話と結論づけたのだ。
こうして「安全」という価値を世に問うた新しいパワーウインドウ・スイッチ。その反響は予想以上で、瞬く間に世界のスタンダードとなった。世界を変えた、小さな改良。そこには、クルマに乗るすべての家族への思いが込められていたのである。