MAZDA

MAZDA 100TH ANNIVERSARY

第10話
20年目に届けられたラストピース
仲間が創り出した表彰台

1991年、マツダはルマン24時間レースで総合優勝を飾った。しかし、栄光のチェッカーフラッグを受けたジョニーハーバートは、ゴールドライバーの栄誉と引き換えに、極度の緊張と疲労のために脱水症状を起こし、マシンから降りるとマシンに倒れ込み、そのまま医務室に運ばれてしまった。優勝ドライバー3名の中で、ただひとり彼だけが、晴れの表彰台に立つことができなかったのだ。

それから20年後、ル・マンの主催者からマツダにあるオファーが届く。その年のル・マン24時間レースの開始前に、優勝20周年を記念したデモンストレーション走行を実施するというものだ。ル・マンのオールドファンは、マツダが優勝したことをしっかり覚えている。もちろん、ロータリーエンジン特有の迫力あるサウンドとともにだ。

実に光栄なオファーだが、それを受諾するためには問題が山積していた。総合優勝から20年。すでにマツダはモータースポーツから撤退し、レース運営を担当していたマツダスピードも解散。優勝を果たしたゼッケン55番のマツダ787Bはミュージアムで大切に保存されていたものの、サーキットを全力で駆け抜けた現役時代の性能は失われている。メカに精通する当時のスタッフもほとんどが退職。マツダの経営的にも、リーマンショックの影響などで財務状況が苦しく、なかなか社内の決裁が下りなかった。担当者の努力でやっと正式なゴーサインが出たのは本番目前。残されたわずか3か月間で、全開走行に耐え得るエンジンを新調し、時速350㎞の走行を支える車体にもフルレストアを施し、優勝当時のマシンの状態を可能な限り復元していったのである。

そしてついに、デモンストレーション走行の当日が訪れた。かつての勇姿そのままの優勝マシンに乗り込んだのは、当時のゴールドライバー、ジョニー・ハーバート。現役を引退して久しい彼はこの日のためにダイエットに取り組み、当時のレーシングスーツを着られるまで身体を絞ったという。その意気込みに応えるように、マツダのスタッフはエンジン回転数を制限しない特別な許可を出した。ファンに最高のエキゾーストノートを聞かせるためにも、本来の性能、最高のコンディションで彼の地を疾走させたかったのだ。

デモ走行は当初1周の予定だったが、主催者から特別に2周することを許された。大勢の観客が見守るなか、たった1台のレーシングカーがサーキットを駆け抜ける。1周、そして2周……ハーバートも往年の走りを徐々に取り戻し、ゼッケン55番は4ローターエンジンの美しいサウンドを轟かせ、サルトサーキットに集まったファンを魅了した。

大役を終え、ピットレーンにマシンを戻したハーバートを待ち受けていたのは、主催者の粋な計らいで用意された「表彰台」であった。

陽気な彼は、1991年のゴール後を再現するかのように、脱水症状で立てなくなるふりをおどけて演じ、関係者によって表彰台に運ばれるというパフォーマンスで応えた。そして、優勝直後にやりたくてもできなかったシャンパンファイトを身振りで演じてみせた。その姿に、現地に詰め掛けていた当時を知るスタッフの目に熱い涙があふれた。

日本車が初めてル・マン24時間レースを制し、4ローターエンジンの勇壮なサウンドが主役を演じたあの日。ただひとつやり残していたパズルのラストピースは20年の時を経て、ル・マン主催者とマツダ、そしてロータリーエンジンを忘れず集まってくれたファンの手で、しっかりと嵌め込まれた。

デモンストレーション走行 (2011)
デモンストレーション走行 (2011年)

レストア作業の様子