1960年、東洋工業は自動車の年間生産台数で国内メーカーのトップに躍り出て、1962年までその座を守った。その立役者となった一台が、〝ケサブロー〟のニックネームで親しまれた軽三輪トラック「K360」だ。3年間の総生産台数は17万台を超え、実に全体の3割近くを占める堂々の数字だった。
しかし本来は、この世に存在しないはずの幻のトラックだった。
50年代の終盤になると、かつて隆盛を誇った三輪トラックは衰退期に入った。廉価な四輪トラックにシェアを奪われたのだ。その一方、従来より一回りも二回りも小ぶりな軽三輪トラックが空前の大ブームを呼んでいた。いうなれば、斜陽の三輪業界が咲かせた最後のひと花であり、東洋工業の社内や系列販売店からも軽三輪トラックの商品開発を求める声が急速に高まった。しかし、社長の松田恒次は「あれは一時の流行りもの。寄り道している暇はない」と、全く取り合おうとしなかった。念願の乗用車をはじめとした四輪車の開発に全力をあげていたからだ。
「社長の承諾が得られないのなら、もはや諦めるしかない……」
誰もがそう考えるところ、素直には諦めない連中がいた。軽三輪の市場ニーズは確かだ。ならば、販売店からの強い要請に応えるためにも、東洋工業の高い技術力を示すためにも、「最高の一台をつくり上げよう」と、一部のエンジニアたちが密かに覚悟を決めたのである。
当然ながら、社長の意向に反した軽三輪の開発は、すべて秘密裏に行われた。幸いにも、計画を主導した設計課長と懇意だった試作の各職長が全面的に協力してくれた。通常、試作の手配には、正式な工事番号を工事計画係に伝える必要があるが、これでは企みがばれてしまう。ここは、エンジン、シャシー、ボディの設計図に独自の符号を付けて対処した。いざ試作部品が出来上がると、さらに細心の注意が必要となる。車体の組立は大掛かりな作業となるため、簡単に機密が漏れてしまうのだ。そこで彼らは工場の一角を板塀で囲って遮蔽し、息を潜めるようにして作業を進めていった。
こうして小さな三輪トラックが遂に完成する。丸ハンドル、鋼製キャビン、4サイクルのV型2気筒エンジン。先進技術の投入に抜かりはない。また、可愛くスマートな外観も自信作だ。役員の面々に披露したところ、これは絶対に売れると皆が大絶賛した。残されたのは、社長の承認を取り付けるという、最後にして最大の難関だ。結局、設計課長が責任をとって直談判を決意し、怪訝な顔をする社長を秘密工場へと案内した。そして試作車を前に、その商品性の高さについて熱弁をふるい、「是が非でもつくらせてほしい」と嘆願した。
黙って説明を聞いていた恒次だったが、気に入っている様子はその表情からありありと読み取れた。しばらくの沈黙の後、「勝手にせい」とだけ言い残し、その場を立ち去った。しかしその後ろ姿には、自分に逆らってまで信念を貫いた部下たちへの誇らしい気持ちと、高い完成度への驚きがにじみ出ていた。